vol.402 [トマトのダークツーリズム案内]ベトナム戦争戦跡3選(イアドラン渓谷、ハンバーガーヒル、ケサン基地)

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通常の観光では訪れることのないベトナムのディープなスポットを紹介するコーナーです。

今回はベトナム中部にあるベトナム戦争の戦跡を3つ紹介します。

ベトナム戦争は通史的に総論で語られることが多く、ひとつひとつの戦闘に焦点が当たることはあまりありません。ですので今回は各論的にベトナム戦争の中でも比較的有名な戦闘を映像と合わせて紹介したいと思います。

まずは3つの戦跡のドローン映像をご覧ください。

⑴イアドラン渓谷 Ia Drang valley(Núi Chư Prông) 00:00〜01:28

ザライ省プレイク市から南西に60km、Chư Prông郡というカンボジア国境沿いにあるイアドラン渓谷は1965年11月に米軍と北ベトナム軍及び南ベトナム解放民族戦線との初の組織的戦闘が行われた場所です。

イアドラン渓谷の戦い

1965年3月の米軍のダナン上陸をきっかけに、大規模な戦闘部隊が大量に南ベトナムに送り込まれます。

特に同年10月には陸軍最強と言われた約15000名の第一騎兵師団が派遣されます。この師団はヘリコプターを多用した戦術を用い、この派遣は神出鬼没の解放戦線のゲリラ兵と互角に戦えることを意味していました。

これまで米軍は解放戦線との小さな戦闘を繰り返してきましたが、第一騎兵師団を軸に大規模な組織的戦闘に向けて準備を始めます。

そして同年11月、カンボジア国境のChư Prông山(00:40〜)に200名の北ベトナム軍がいるという情報を聞きつけ、第一騎兵師団のヘリコプター部隊約450名をChư Prông山近くのXray着陸帯(00:45〜)まで出動させます。

しかしChư Prông山に潜んでいた北ベトナム兵を捕らえ、尋問すると、三個大隊(約1500〜2000名近く)の北ベトナム軍がChư Prông山に潜んでおり、米軍は包囲されていることを知ります。

米軍は苦戦を強いられますが、ヘリコプターを多用した巧みな戦術や戦闘機による援護攻撃により北ベトナム軍を後退させ、結果的に米軍側の勝利に終わります。

この戦闘で、234名のアメリカ兵と約3000名の北ベトナム兵が亡くなりました。

この戦いをきっかけに、物量戦でも勝てなかった北ベトナム軍及び解放戦線側はアメリカ軍との直接的な戦闘を避け、ゲリラ戦への転換を余儀なくされます。

そして米軍は戦果を北ベトナム兵の死亡数で測り、今後の戦いをヘリコプター中心の戦闘を行うようになります。

まさにベトナム戦争の戦闘のあり方を作った戦いがこのイアドラン渓谷の戦いなのです。

イアドラン渓谷に行ってみた

イアドラン渓谷へはまずザライ省プレイク市から南西方向に国道17号線(QL17)→19号線(QL19)→県道663号線(ĐT663)に沿って進みます。計60kmほどの道のりです。

国道19号線はこんなかんじで非常に走りやすい

県道663号線も最初はきちんと道が舗装されていて順調に進めました。

しかし県道663号線の途中から未舗装の悪路に変わり、バイクの運転の際には注意が必要でした。こういう赤土の道は雨が降るとベチョベチョになってかなり滑りやすくなるので、晴れの日に行くことをおすすめします(笑)。

こんな感じの道が15kmくらい続きます。

車が通るだけですごい砂ぼこり。

悪路をひたすら進み、脇道を出るとイアドラン渓谷が見えてきます。渓谷というよりは高原のようなところです。

当時の映像と比べると、イアドラン渓谷にはもっとジャングルが生い茂っていましたが、現在は森林の大量伐採と環境破壊により、ひたすら原野が広がる光景となっています。戦争のせいで荒野になったわけではありません。

奥に見える山がかつて北ベトナム軍が潜んでいたChu Prong山。山の向こうはカンボジア。

イアドラン渓谷の戦いは『ワンス・アンド・フォーエバー』という戦争映画でも描かれているほどベトナム戦争史に残る重要な戦いがあった場所でもあります。
しかし現地に行ってみると記念碑も目印も一切なく、何も記録として残っていないのがとても残念でした。

ベトナム政府にとって自軍が負けた戦闘、つまり都合の悪かった戦闘を隠し、革命戦士の輝かしい戦闘や、誇らしい戦争記憶のみを残すようなやり方がここに表れています。

勝つにせよ負けるにせよ何も記録として残されていないと、この荒野のように記憶も忘れ去られていくでしょう。

場所

県道663号線と国道14C号線との合流地点に見える山がChư Prông山で、その近くの平野にXray着陸帯があります。こんなところまで行く奇特な方はおそらくいないと思いますが、訪れる際には下のグーグルマップを参考にして行ってみてください。

⑵ハンバーガーヒル Đồi thịt băm 01:28〜02:47

937高地、通称ハンバーガーヒルは、フエ市から100km西のラオス国境近くのかなりの山奥にある丘の一つです。

ハンバーガーヒルの戦い

ハンバーガーヒル付近にはかつて北ベトナムからラオスを通り、南ベトナムに物資を運ぶホーチミンルートがありました。
1969年5月10日に米軍がホーチミンルートの捜索と攻撃を目的とするアパッチスノー作戦を行います。その作戦の一部として、戦略要衝地点でもあるハンバーガーヒルを占領するための戦いが行われます。

しかし丘で待ち受けていたのは解放戦線のような少数のゲリラ兵ではなく、ラオス国境から進入した訓練済みの北ベトナム正規軍で、丘の攻防をめぐり米軍は苦戦を余儀なくされます。

10日間にわたる戦いで米軍は合計2000名近くの兵士を繰り返し動員し、最終的にハンバーガーヒルを占領しますが、72名の死者, 372名の負傷者を出すなどの大損害を受けました。

結局すぐに米軍はハンバーガーヒルを放棄し、この戦いで戦況に有利になることもなく米軍の徒労に終わりました。

ちなみにハンバーガーヒル(ベトナム語ではđồi thịt băm=ひき肉の丘)と呼ばれたのはそこにいくとミンチのように肉塊にされると米軍の間で言われていたからです。それくらい激しい戦闘がここで行われました。

ハンバーガーヒルに行ってみた

ハンバーガーヒルへはフエ市から西方向に国道49号線(QL49)沿いの山道を90kmほどひたすら進みます。

渓谷をねるように進みます。

山道を登りきるとA Luoi郡という街が現れます。

国道から県道に進み、少数民族の家が点在する村を通り抜けます。

途中こんなヤバい道に遭遇しますが右側から下りて普通に進めました(笑)。

丘に進むにつれ道がだんだんと狭くなってきます。

Đồi A BIA=ハンバーガーヒル

ハンバーガーヒルの入口には看板と階段があり、ここから先は歩いて頂上を目指します。

はじめはすぐに頂上に着くかと思いましたが、

歩けど歩けど頂上は見えず、

鬱蒼としたジャングルを行軍するかのようにひたすら登ります。

階段がなくなったあともかなり歩きました。もはや登山です。

途中にはヘリコプター墜落跡や塹壕跡などが複数あり、激戦地であったことを思い起こさせます。

ヘリコプター墜落跡への案内看板

しかし看板の先は道もなく、木々が生い茂りすぎて迷い込んでしまいそうだったので行くのは断念しました。

3kmほど登山したでしょうか。ようやくハンバーガーヒルの頂上についたものの、特に景色が開けた場所ではなくただ記念碑があるだけでした。かなりがっかりです。

記念碑にはベトナム側の戦勝という形で残されています。ベトナム側が勝ったことにしていいのかかなり疑問ですが、勝つとこのように記録として残されます。イアドラン渓谷の時とは対照的ですね。

ドローンから撮った写真。現在のハンバーガーヒルは鬱蒼としたジャングルが生い茂っています。

奥の山脈を超えるとラオス領。

付近には少数民族の方達の畑が点在しています。奥に見える平地がA Luoiの街。

ハンバーガーヒルよりも途中の道沿いの丘の景色のほうが開けててきれいでした。むしろこっちのほうが丘っぽい。

 

映画『ハンバーガーヒル』

937高地での戦闘は『ハンバーガーヒル』という映画にもされています。

この映画では米軍の無意味で無益な戦闘における各兵士の苦悩や不安、焦燥感などが描かれており、激戦地における米軍兵士がミクロレベルでどう感じていたのかを知る映画としてみると面白いです。

何のために丘を奪うのか?と聞かれて、軍曹が「駐車場にするのさ」と答えたセリフが印象的でした。

興味がある方は見てみてください。amazonプライムなどからレンタル視聴もできます。

場所

国道14号線沿いのA Lướiの街からさらに県道20号線(ĐT20)を西方向に少数民族の村を通り抜け、Đồi A Biaと書かれた道に沿って丘を目指します。

ハンバーガーヒルはフエ市からかなり遠いので、訪れる際にはA Lướiの街で1泊することをおすすめします。

A Luoiの街で泊まったnhà nghỉ。nhà nghỉ=ラブホテルだと勘違いしてる人もいますが、地方だと安いホテルとして通常利用されるのが普通です。

料金は一泊約1000円ぐらいで激安。しかしベッドは激カタ。

⑶ケサン基地 Sân bay Tà Cơn(Căn cứ Khe Sanh) 02:47〜

米軍はクアンチ省にある北ベトナムと南ベトナムの国境線及びホーチミンルートの近くにケサン基地を設けました。当時の南北国境線から25km南にある最前線の基地です。その基地をめぐって米軍と北ベトナム軍の正面対決が行われます。

ケサンの戦い

1968年1月にヴォー・グエン・ザップ将軍率いる北ベトナム軍がケサン基地を包囲し、猛烈な砲撃と塹壕戦を行います。北ベトナム側は同年1月のテト攻勢に成功し、米軍最大の前線基地であるケサン基地が陥落すればベトナム戦争全体への勝利を導くことができるとの考えでした。

兵員数は米軍約6000人に対して北ベトナム軍は約21000人を動員し、包囲された米軍は補給を空輸に頼るしかないほど不利な状況に置かれます。

しかし、米軍航空部隊の「ナイアガラ作戦」という米軍史上最大の超大量爆撃により、北ベトナム軍はあえなくケサンから撤退します。

ナイアガラ作戦ではわずか16km×26kmの地域に2ヶ月間で11.4万トンの爆弾を投下しています。第二次世界大戦中に1年間で日本全土に投下された爆弾量が16.4万トンであることをみると、ナイアガラ作戦が滝のようなすさまじい大量爆撃であったことがわかります。

ケサンの戦いでの死者数は米軍側が約300名、北ベトナム軍が約8500名で、数の面で見ても北ベトナム側がかなりの損害を受ける形で敗北しました。

現在のケサン基地

ケサン基地へはフエ発のDMZ(非武装地帯)ツアーに組み込まれており、日帰りで気軽に訪れることができます。ケサン基地跡には資料館や当時の航空機、戦車も展示されており、当時の雰囲気を味わうことができます。

当時の輸送機まで置かれているのには驚きました。

ケサン基地に付設されてる博物館。当時の写真や武器等が展示されています。

警告:ケサン基地の海兵隊であることは命の危機にさらされることかもしれない。

ケサンの街とchiến thắng(戦勝)

北ベトナム側はケサンの戦いに敗北したにも関わらず、ケサンの街にある記念碑や看板にはchiến thắng(戦勝)と誇らしく掲げられ、戦って死んだ兵士たちは英雄としてまつられていました。

ケサンの街の中心部にあるモニュメントの真ん中にはchiến thắngと書かれています。

競争が成績を作る ケサンの解放と戦勝から50周年を記念して

tổ quốc ghi công=祖国への功労

ほとんどの墓には”chưa biết tên=名前がわからない”と記されていました。

確かに米軍はケサンの戦いの3ヶ月後に基地の維持が困難であることを理由にケサンから撤退しています。

また、ケサンの戦いで米軍はいかに大量爆撃を行なっても北ベトナム軍を全滅させることはできないことを知ります。さらに同年1月に起こったテト攻勢に伴い、米軍の投入が南ベトナムの勝利に結びつかないことも見えはじめ、ケサンの戦いは米軍全体の撤退ムードの引き金にもなっています。

つまりケサンの戦いでは、短期的に見たら米軍の勝ちで、長期的に見たら北ベトナム軍の勝ちとなります。

しかし何をもってchiến thắng(戦勝)と言えるのでしょうか?ベトナム政府側の解釈は未だにあいまいなままです。chiến thắng(戦勝)と言ったもん勝ちな部分もあるのでしょう。

場所

ケサン基地を個人で訪れる場合はケサンの街で一泊するのがおすすめです。街は標高が1000m近くあるので夏でも非常にすごしやすく、ラオス国境からも近いのでラオス系少数民族にも出会えます。

ケサンの街の近くにあるダム。

ケサンの街はとても小さく、家も少ない。

ケサン市場

少数民族の方達も市場でお買い物。

パコ族の民族衣装を購入。一着20万ドン(1000円)。

参考サイト・文献

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